山辺人形芝居とその浄瑠璃人形について

山辺人形芝居とその浄瑠璃人形

<山辺町ふるさと資料館収蔵資料より>

1 山辺人形芝居のあゆみ

 山辺人形芝居は、船町に住んでいた阿部房治(初代西川房司)によって明治20年代に創られました。房治さんは、1858年今から約140年前農家に生まれましたが、農家の仕事より、歌ったり踊ったり、笛や太鼓を鳴らす”芸事”が大好きで、自分で作った手人形をあやつっていたほどです。ある時、山形に町から町村から村へと旅をしながら歌舞伎が上演されることになりましたが、笛を担当していた方が事故で芝居の幕を開けられないということがありました。その時、房治さんは臨時に雇われて笛を吹きましたが、そのお礼にいただいた賃金が農家の賃金に比べるととっても高かったので、将来は芸能の道に進もうと決心したということです。そのころ、江戸人形芝居の名門で、四国の淡路系の西川伊三郎(五代)一座が仙台に来て人形芝居を見せてくれるという話しを聞き、弟の房五郎と一緒に出かけて弟子入りをしました。この一座で一ヶ月にわたって人形操作の大部分を学び、西川という芸名をもらって船町に帰り、西川人形芝居一座を創りました。これが「船町人形芝居」の起こりで、1887年のころでした。
 房司さんは自分の家族や親戚の人たちで一座をまとめ、子供にも人形を遣わせました。房司さんの奥さんは左沢にいた竹本清太夫の弟子で、鈴木マツエ、芸名を鶴沢喜代松といい、房司さんに負けないくらい熱心な女性でした。これに使う人形は、当時、東京の浅草から二度の災害に遭って山形に流れてきた(尾村)神保平五郎(1839年生)という人に依頼して製作してもらいました。
 大正時代の初めに、大阪の文楽の一座が山形に来たので、房司さんは息子の房太郎と共にそこを訪ねどうしたらもっと人形芝居が上手になるか教えてもらいました。この教えが後々まで大きく影響したということです。初代房司さんは、1924年に66才で亡くなりました。
 二代目西川房司(房太郎・1892年生)は7才になると早くも子役で出演しました。彼はお父さんから人形の操作の手ほどきを教えてもらい、お母さんからは三味線や浄瑠璃を習いました。家では本業として下駄をおもに作る履物屋さんでした。その後1927年、山辺町に引越して来たので「山辺人形芝居」と呼ばれるようになり、山辺町を代表する芸能になりました。

2 芝居の工夫と特色

 初代の房司さんは、人形の目玉や・口を動かすことに成功しましたが、これは文楽の三人遣いのカシラにヒントを得たものでしょう。次に本来、人形の足元から手を入れる裾突っ込み式の一人遣いの手人形なのに、人形の手の指も折れる仕掛けをつけ、また場合によっては、二人遣いで、足の動きも表わせる裾さばきの技法も取り入れ、舞台の上での衣装の脱ぎ替えの新技法も考えだしました。
 演出の様式でも、それまでは自分で人形を操り自分で地を語り、セリフを言うという単純なものでしたが、浄瑠璃を取り入れてチョボ(地の部分を義太夫で語ること)とし、セリフは遣い手が言うという歌舞伎風の様式にしました。
 また、妖怪の場面など、さっと人形の表情を変えさせる「面落ち」の面つき人形も考え出しました。こうした工夫を実らしたのは、(尾村)神保平五郎を始めとする地方在住の優れた人形製作者たちでした。

3 山辺人形芝居と社会

 上演できる狂言は50を数え、奥州安達ヶ原三段目、伊賀越道中双六、関取千両幟猪名川内の段、朝顔日記の大井川、絵本太閤記尼ヶ崎の段、基盤太平記白石噺新吉原の段、箱根霊験記躄の仇討、加賀見山古旧錦絵、壺板寺沢市住家の段、義経千本桜等は最も得意とする演題で、文七団七の荒事(あらごと)から女形(おやま)や三枚目を遣う世話物・艶物(つやもの)まで巧みにやってのけました。
 家族みんなで力を合わせることで、一族の繁栄を図ることを目標としたので、それぞれの持ち場の芸に励み、一種独特の芸風を築き上げていきました。全国の人形劇界でも知られるようになり、招きを受けて町内外、さらには中央でもしばしば上演されてきました。
 1972年11月1日、山辺町無形文化財に指定されました。
 1975年10月3日(金)4日(土)の両日、東京国立劇場で「日本の民俗劇と人形芝居の系譜・特殊な一人遣い」という演題で上演しました。一人遣い人形の集大成という観点で評価されたのでした。
 1976年11月3日、それまでの優れた上演活動が高く評価され、山形県斎藤茂吉文化賞が授与されました。
 しかし、現在は後継者難で活動が途絶えているのが残念です。

4 浄瑠璃人形とその文化財的評価

 総数二百体以上になる人形の製作者には、東京の浅草で活躍し、後に山形から天童に移った(尾村)神保平五郎や山形の渋江長四郎、野川陽山等があげられ、また、初代西川房司や二代目房司の作品も見られます。人形の衣装については細かな点まで心を配り、必要な図案の布地が無いときには東京の浅草まで出かけて買い求めてきたということです。ですから、人形の一体一体を手にすると、その首(かしら)の巧みさとともに衣装の芸術性に頭の下がる思いがします。この浄瑠璃人形を買い求めたいという要望が各地の人から寄せられていますが、その芸術性を考えれば当然のことでしょうし、それだけに地元山辺町に保存・紹介したいものです。

5 山辺町ふるさと資料館に収蔵されている浄瑠璃人形(3場面・23体)

(1)本朝二十四孝
1、上杉 謙信  2、武田 勝頼  3、原 小文治  4、平塚 六朗
5、濡   絹  6、八重垣姫

(2)大巧記
1、武智 光秀  2、小田 春永  3、真柴 久吉  4、さつき
5、操      6、十 次 郎  7、初   菊  8、加藤 正清

(3)南総里見八犬伝
1、伏   姫  2、犬山 道節  3、犬塚 信乃  4、犬坂 毛野
5、犬飼 現八  6、犬川 荘介  7、犬江親兵衛  8、犬村 大角
9、犬田小文吾

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