庄内出羽人形居のインタビュー映像について

庄内出羽人形芝居の人形師:津盛柳貳郎氏をインタビューしました。その時の映像をご覧ください。

人形の操り方

 

1. 人形の操り方

 『庄内出羽人形芝居』は操り方に特徴がありまして、基本的に両手遣いで、左右の手にそれぞれ1体ずつ、1人で2体を操ります。こちらが人形の頭(かしら)ですが、人差しと中指を開いて、ここに首の下についている〝すりこぎ〟のような棒のところを軽く挟みます。
 腕は、親指に1本と小指に1本、人形の腕を入れて両腕になります。まず腕をつけ、そこに先ほどのように人差しと中指で首の下の棒を軽く挟んで、これで人形の体ができます。これが『庄内出羽人形芝居』の操り方の特徴です。「手遣い人形」といわれていて、これに衣装をつける形になります。
 衣装は、普通の着物の形をしていまして、人形の大きさに合わせて作ってあります。裾から腕を入れて、それぞれ人形の右と左の袖口から腕を入れ、それから頭の首の部分を襟の中に入れて指で軽く挟んで、これで人形が完成という形になります。
 手遣いの人形で、衣装に頭も腕もバラバラになって操るというのは世界中どこにもないといわれています。しかも、人形の首が飛んで、離れます。先ほどの『春日熊野丞たぬき退治』のように、立ち回りの時に化け物・妖怪の首が吹っ飛んで、入れ替わり立ち替わり新しい妖怪に〝5段化け〟するという流れの操り方です。
 襟と着物の間に人形を乗せ、人形を着物で浮かせています。ですから着物を脱ぐと結構、首を回すのは厳しいです。 腕だけだと遊びがなくなるので、棒の送りがきついというか、結構首が回りにくいのです。
 木の種類は、頭自体も下の棒も腕の部分も、全部、桐の木です。やはり片手で持って操りますから、なるべく軽くということで、桐の木で作られています。

古い人形へのこだわり

 

2. 古い人形へのこだわり

 昔は、人形を操る人が自分で木を削って人形を作り、操っていたという歴史もありますが、私は先代の師匠の津盛柳太郎から受け継いだ人形を修繕しながら使っています。
 かなり老朽化も激しいので、外部に新しい人形の製作をお願いしたところ、やはり作者の個性もあって、同じ人形を依頼しても表情も全く違った頭が出来上がってきます。そうすると、『庄内出羽人形芝居』の流れにはそぐわない場合があるので、今は古い人形を大切に使っているところです。

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出羽人形芝居との出会いと継承

 

3. 出羽人形芝居との出会いと継承

 『庄内出羽人形芝居』と出会ったのは22、3歳の頃からで、津盛柳貮郎の名前をもらったのは昭和59年、ちょうど30歳の時です。私は人形芝居をやるつもりはありませんでしたが、本格的にやらざるを得ないことになった時には、もう師匠は教えてくれませんでした。 
 それで何をやったかというと、舞台の袖にカセットテープを置いて、まずは台詞を録音したのです。客席から見たり舞台の袖で見たり、イメージトレーニングをしながら、台詞をテープ起こししました。
 3回くらいテープ起こしをしましたが、3回とも台詞回しが違うのです。お客さんとのキャッチボールの中で、やはりその時のお客さんの反応によって台詞をどんどん変えて盛り上げていく。盛り上がる場所というのは、アドリブが入って盛り上がっていく。
 最初は台詞を丸暗記ですから、アドリブは入れられません。アドリブを除いて一通りやりますが、最初のうちはお客さんに声をかけられると頭が真っ白になって、台詞が止まってしまうことがありました。3年か4年くらいして、ようやくアドリブでお客さんとのキャッチボールができるようになったかなと感じました。

 この『猿倉人形芝居』は、池田与八という人が考案しました。安政5年に秋田で生まれています。人形劇の場合は、創始者が生まれた年が創設の年と決められていますので、安政5年に『庄内出羽人形芝居』の前身である『猿倉人形芝居』が始まったとされています。
 津盛柳太郎が『庄内出羽人形芝居』という形で旗揚げしたのが、昭和47年です。その前はずっと巡業して歩いていましたから、復活という形でしょうか。
 津盛柳太郎は、秋田の矢島の生まれです。親も人形遣いで、盛岡の人形劇団の一員でしたが、5歳の時に親を亡くして、佐藤三津盛の一座で養子のような形で育てられました。
 幼少の頃は、人形芝居は結構、羽振りが良くて、小学校に羽織袴で学校に行ったらいじめにあい、川に落とされて、そのあと学校に行かなくなったそうです。それで結局、読み書きができず、鶴岡のあつみ温泉にある旅館たちばなやで復活する時に、私の母が同じ芸事が好きだったことから津盛柳太郎の裏方兼マネージャー兼運転手を務めることになりました。
 そうした縁で、私は母を通して『庄内出羽人形芝居』に出会ったというわけです。

お座敷芸として発展した庄内出羽人形芝居

 

4. お座敷芸として発展した庄内出羽人形芝居

 昔、『猿倉人形芝居』は屋外で、神社の境内や公園などに小屋掛けして行いました。木の櫓のような感じの大舞台です。しかも座員が10人とか15人とかの大きい一座で、人形を操るのは1人1体。何人もアンサンブルでやっていました。
 その舞台が座敷に変わった時に、天井が高い所は少ないので、芝居を立ってやってしまうとお客さんが間近ですから首が疲れるということになりました。それで先代の津盛柳太郎から舞台を下げて見やすく工夫して、立ち膝で演じるようにしたのです。いわゆる宴会芸というか、座敷で酒を飲みながら楽しめる大人の人形芝居ということでしょうか。
 『庄内出羽人形芝居』の場合は、台詞も1人で言いながら、侍、村人、それから村娘…と声色を使って、一人語りで物語が展開していくという形になります。
 演目の中で、芝居台詞の中にお客さんに投げかけて、お客さんから反応をもらいながら芝居を進めていくという場面があります。それによってお客さんが、より人形芝居に入ってくる。人形師も、お客さんの反応を見ながらアドリブを入れたりして展開することによって、芝居が盛り上がっていく。そういった形で芝居をつくり構成されているというのが面白さだと感じています。
 お客さんは最初、台詞や音はカセットか何かで流しているのではないか…と思って見ているところから、やり取りをしてお客さんの反応によって台詞をキャッチボールする場面になった時に「あっ、生でやってるんだ!」と。そこでお客さんがまた驚くという仕掛けになっています。
 あつみ温泉の旅館たちばなやでの公演が定番ですが、お客さんというのは基本的に観光客の方です。「最上川船下り・出羽三山の旅御一行様」であつみ温泉に来られます。
 そうすると、宴会で人形芝居があることを幹事さんと旅行会社の方はわかっていますが、他のお客さんは何があるか知りません。たまたま「宴会の一つの余興として、先に地元の人形芝居をご覧いただきます」と言った時に、お客さんにとっては宴会ですから、人形芝居を見たくてやってきている方は稀なわけです。
 そこで人形を操るということは、それなりの魅力というかインパクトがないとお客さんは見向きもしてくれません。やはり宴会の中で人形芝居をするということは、本気でその人形芝居をご披露する気構えというか迫力というか、それを持たないと注目されないのです。
 私が『庄内出羽人形芝居』を受け継いだ時には、まさか自分がやるとは思ってもいませんでしたが、たまたま師匠が怪我で舞台を踏めないということで代役で出ました。まだまだ満足にできない状態で、それでも舞台に穴をあけられないため出番をもらったのです。
 舞台に出ても、最初の1週間10日は全然拍手がきませんでした。10日目ぐらいになって、ようやくパラパラと拍手がきて、「下手くそな芸でも拍手してくれる人がいるんだな」と感じた時に「もっと真剣に真面目にやらなくては」と思いました。
 劇場でやる場合は、お客さんはまっすぐ正面、舞台を見ていて、人形芝居を楽しむということで来ますから、とてもやりやすいです。でも、宴会の場合は舞台のほうを見ていません。お膳を見て横に向いていますから、そこでやった時に注目をしてもらうというのは、それなりのインパクトを持った演じ方をしないと厳しいのです。
 ただ、宴会芸といいながらも、お客さんの中には芸術に対する造詣が深い方もいますので、「宴会芸だからといって手を抜いてはダメですよ」というのが師匠の口癖でした。

伝統人形芝居の継承

 

5. 伝統人形芝居の継承

 東北に伝わる伝統人形芝居は、前は各地に60くらいあったといいます。平成20年に文化庁が東北に伝わる伝統人形芝居の調査を行った時に、60くらいだったと思っていました。しかし一昨年だったか、盛岡にある岩手県立博物館で、岩手県内に伝わる人形芝居展というのをやった時に、岩手だけで30くらい見つかったということでした。
 では、なぜ、それが継承されなくなったのか。その背景は『庄内出羽人形芝居』がなぜ継承されたのか…ということにも繋がると思いますが、やはりあつみ温泉の旅館で、定番で上演できたことが大きいと思います。当時の旅館の支配人の「観光客に地元の珍しいものを披露したい」という希望があって、上演する場があったことが継承を可能にしてきました。
 昔は紙芝居も人形芝居もありましたが、テレビ・ラジオ・映画の新しい文化によって、その娯楽が多様化し、変わってしまいました。小屋掛けして上演しても、お客さんが入らなければ人形芝居、人形師としての生活が成り立ちません。そうなれば当然、別のことを始めなければならないということで、継承がされなかったのではないかと思います。
 たまたま『庄内出羽人形芝居』の場合は、あつみ温泉の旅館たちばなやで、しっかり活動する場所を準備していただきました。先代・津盛柳太郎から津盛柳貮郎に継承できたのもその活動する場があって、お客さんの要望に応えて上演ができたからこそです。地道に活動を続けていたとしても、見る人がいなければ自然に忘れ去られてしまいますから。
 『庄内出羽人形芝居』に限らず、伝統文化や伝統芸能はこうしてマスコミに出ると一旦は盛り上がります。でも、それが下火になるとまた、下ってしまいます。そういった意味では芸能界と同じで波があって、もてはやされるされる時期があり、そのブームが終わると廃れてしまう。そうした時代の流れに影響されてしまいがちです。
 もう一つは、歌舞伎や能舞台、浄瑠璃などは地域に伝承され、神社に奉納という意味合いで地域で守られてきていると思います。しかし如何せん、この東北に伝わる人形芝居は旅芸人の文化を持っていて、その旅芸人としての形態が失われてきてしまいました。要するに、需要がなくなったことから継承することが叶わなかったのではないかと思います。

海外公演で気がついたこと

 

6. 海外公演で気がついたこと

 日本国内においてもさまざまな人形芝居があり、手遣いから文楽、浄瑠璃、糸操り、それから子どもたちの保育園でやる人形劇のようなものまで多岐にわたりますが、世界的に人形劇・人形芝居の世界をみてみると、ユニオン・インターナショナル・デラ・マリオネットという国際組織があります。フランスのシャルルヴィル・メジエールというところに本部があり、全世界で大体80から100か国ぐらいの人形劇の団体が加盟しています。
 4年に1回、基本的にはオリンピックの年に各地で催し物を開催していて、特にヨーロッパは陸続きなので人形劇団は車で移動していろいろなフェスティバルに参加しているということでしょうか。
 『庄内出羽人形芝居』も平成8年、ハンガリーで開かれた第17回ユニオン・インターナショナル・デラ・マリオネット世界大会で公演しています。
 最初に海外に行ったのが平成4年、オーストリアのクラーゲンフルトという町の町おこしで、エスペラント語を使って上演する人形劇の大会があり、そこで初めて海外公演をすることができました。
 海外公演に行って初めて気づいたことは、各世界に民族衣装を着た人形が残っていて、日本は〝ちょんまげ〟で刀を差してチャンバラができる人形を出すだけで、もう喝采です。やはり侍の人形というのは他にないですから。そういった意味では、人形芝居の世界は、人形を出すだけで世界共通語になってしまいます。人形を操る人たちは、もうその場ですぐ友だちになれるという、世界共通語としての媒体になってるかなと感じました。
 そして、大人から子どもまで楽しめます。ヨーロッパは特に美術館や公設の場所やホテルなど、いろいろな所にパティオという中庭があり、そこに特設会場をつくって人形劇を楽しみます。人口7万人から10万人くらいの町には必ずそうした人形劇場があって、大人も子どもも楽しんでいるという世界がありました。