『猿倉人形芝居』の流れを汲む『庄内出羽人形芝居』
『庄内出羽人形芝居』は、東北に伝わり「手妻人形」などと呼ばれた『猿倉人形芝居』を前身としています。安政5年に鳥海山の麓、秋田の百宅(ももやけ)で生まれた池田与八が、明治の中頃に人形芝居を立ち上げました。これが『猿倉人形芝居』と名づけられ、庶民の娯楽として東北をはじめ各地で盛んに上演されていました。
その流れを受け継ぎ、津盛柳太郎よって創設されたのが『庄内出羽人形芝居』です。
初代・津盛柳太郎が『庄内出羽人形芝居』を旗揚げ
初代の津盛柳太郎(本名・佐藤幸吉)は大正13年、秋田県の矢島町に生まれました。父も人形遣いで盛岡の佐藤三津盛一座に入っていましたが、5歳の時に父が亡くなり、父の師匠だった佐藤三津盛に養子として引き取られました。幼い頃から人形遣いの修行に励み、21歳の時に津盛柳太郎の名をもらって各地を巡演するようになります。
やがて山形県鶴岡市に移り住み、そこで人形芝居一座に入りますが、戦後の混乱や時代の流れで人形師として生計を立てるのは難しく、舞台を離れざるを得ない時期が長く続きました。
その後、温海町(現鶴岡市)のあつみ温泉にある旅館たちばなやと専属契約し、『庄内出羽人形芝居』として旗揚げしたのが昭和47年のことです。この時から、三味線や踊りなど芸事が好きだった酒田市広野の東ふみ(本名・齋藤はつせ)が裏方、後見人として津盛柳太郎の芸を支えるようになりました。
二代目・津盛柳貮郎が受け継ぐ人形遣いの芸と誇り
『庄内出羽人形芝居』は現在、津盛柳太郎の一番弟子の津盛柳貮郎(本名・齋藤均)によって受け継がれています。
津盛柳貮郎は東ふみの次男で、昭和29年、酒田市に生まれました。高校を卒業し東京で就職した後、地元に戻った昭和49年に母の縁で『庄内出羽人形芝居』に出会います。その時は「人形芝居をやるとは思っていなかった」といいますが、会社員をしながら裏方を務める母を手伝ううち、自然に人形芝居の道に入りました。
津盛柳太郎のもとで修業を続け、昭和59年に津盛柳貮郎を襲名。『庄内出羽人形芝居』のただ一人の継承者として活動しています。先代の津盛柳太郎から受け継いだ演目「出羽人形ばやし傘踊り」「春日熊野丞たぬき退治」「岩見重太郎大蛇退治」のほか、庄内海岸のクロマツ林を題材にした創作人形芝居を発表。『庄内出羽人形芝居』は地域に伝わる貴重な伝統文化として、平成24年に酒田市無形民俗文化財に指定されました。
また、上演の場は地元地域や国内だけでなく海外にも広がりました。平成4年に、オーストリアで開催された「第1回クラーゲンフルト国際人形劇祭」に参加し、初めて海外で公演。平成8年には、ハンガリーのブダペストで開かれた「国際人形劇連盟 ユニオン・インターナショナル・デラ・マリオネット」の世界大会で公演するなど、海外でも高い評価を得ています。
お座敷芸として独自に発展した『庄内出羽人形芝居』
『庄内出羽人形芝居』は基本的に両手遣いで、片手で1体ずつ、1人で同時に2体の人形を操ります。台詞も1人で、登場人物それぞれの声色を使い分けながら、物語が展開していく形式です。
人形は、着物の形をした衣装の裾から手を入れ、袖口から親指と小指に人形の両腕をはめます。襟元から人形の頭(かしら)をさし、首の下にある棒の部分を人差しと中指で軽く挟んで操ります。ヨーロッパの手遣い人形は、ほとんどが衣装に頭や手をつけた手袋形式の人形で、『庄内出羽人形芝居』のように頭も腕も衣装もバラバラな人形を操るのは世界的にも珍しいとされています。
また、昔、『猿倉人形芝居』は屋外に小屋掛けして舞台をつくり、立って演じました。しかし、初代の津盛柳太郎は、その舞台があつみ温泉の旅館たちばなやの宴会場座敷に変わった時、お客さまの目線に人形を合わせるため、立ち膝のスタイルで演じるようにしました。
演目の中には、お客さまにセリフを投げかけ、お客さまから反応をもらいながらアドリブを入れ、芝居を進めていく場面もあります。
こうした高度な名人芸が津盛柳太郎から津盛柳貮郎へと受け継がれ、『庄内出羽人形芝居』は庄内のみならず山形の宝、そして日本の貴重な伝統芸能となっているのです。